親と子のやりとりでかみ合うために必要な赤ちゃんの能力とは?
親と子どものやりとりがどのようにして、かみ合うのかについては、2つの問題があるといえる。1つは、かみ合うために必要な能力の問題であり、もう1つは、かみ合っているように見えるという問題である。
第1の問題に対しては、子どもと大人のコミュニケーションがどのように展開していくのかについて説明する必要がある。これまでの研究から、人はコミュニケーションをとれる能力をもって生まれてくることがわかっている。
たとえば、生後間もない赤ちゃんは、大人の発声に対して、それに呼応するかのように、発声したり、微笑んだり、握った手を広げたりする。もちろん、親もその反応に呼応する形で、徴笑んだり、発声したりする。また、赤ちゃんが大人の表情を模倣できるという証拠もある。
大人が、舌を突き出す、日を開ける、唇を突き出すというそれぞれの表情に対して、偶然よりも高い確率で、同じ表情をしていたという報告や、さらに幸福、悲しみ、驚きといった表情においても模倣が確認されたという報告がある。
このような結果は、赤ちゃんが、大人の働きかけに対して、ただでたらめに応答しているのではなく、ある意味、コミュニケーションをコントロールする能力をもっていることを示している。
さらに、こうした赤ちゃんの働きかけは、大人がどのように関わればよいかの反応を引き出すものにもなっている。
たとえば、お乳を吸う行為において、赤ちゃんが吸うのを止めたときを、お母さんの方は赤ちゃんを揺り動かして関わるための手がかりとして解釈しているようである。それはまるで、一方が話をしているとき他方が黙っていて、話が終わったら話し始めるといった基本的なリズムを作り上げているかのようである。
また、母親が赤ちゃんとのコミュニケーションに反応しなくなると、赤ちゃんの方から母親にコミュニケーションの参加を促すかのような働きかけがしきりに行われるという結果も報告されている。
これらの結果を総合すると、コミュニケーションをするための能力を赤ちゃんが少なからず持っており、大人も自然にそれに呼応しているのだといえる。
代弁というやりとり
しかしその一方で、上にあげた第2の問題のように、親と子どものやりとりがかみ合って見えるということも考えられる。赤ちゃんが言葉をしゃべらないということは、そもそも、コミュニケーションをとるための手段が大人より少ないという意味で、対等でないともいえる。
それは、自分の意図や感情を伝えたり、自らの行為を説明したりすることができないことを意味する。では、親と子どもは、どうやってそのやりとりを進めているのか。この問題を考えていく上で、興味深い母親の行為がある。
それは、代弁といわれるものである。
通常、代弁は、誰かの代わりに話をすることだが、岡本は、それを大人が、発話形式として子どもを発話主体にし、子どもの意図や行為について言語化すること、あるいは、子どもの視点から言語化された大人の発話と考えている。
たとえば、赤ちゃんが、転んだりぶつかったりして泣いているときに、「いたくない、いたくない」と母親が発する言葉がそうである。痛いという状態は、そのとき赤ちゃんの側にあるのであって、お母さんの側にはない。
通常、私たちが「いたくない」と言うのは、痛いときに、その痛みを忘れるために使っているだが、それを痛いはずの赤ちゃんに代わってお母さんが発しているとすれば、それは代弁ということになるのである。
言葉を話さない乳児に対して母親が代弁を用いることで、やりとりを成立させており、それは、結果的に、話せるようになるずっと以前から、赤ちゃんをやりとりに巻き込んでいる可能性がある。
このことは、第1の問題である赤ちゃんの「かみ合うために必要な能力」を否定するものではなく、むしろそうした能力があることが前提になっているといえる。
つまり、赤ちゃんが親の働きかけに呼応した形で応答できているから、その行為に対して代弁という形式がとられているのだといえる。
加えて、この代弁は、いずれ親になっていく上で、人が「生まれつきもっている」能力といえるかもしれない。
第1の問題としてあげた赤ちゃんがもっているコミュニケーション能力を引き出すためのそれこそ人が「生まれつきもっている」能力なのかもしれない。
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